かつて校舎建設に奔走された当時のエピソード
平成30年1月に開始された本校校舎の改築工事も、いよいよ最終段階に入りました。令和8年3月末の完成予定ということで、8年超に及んだ工事もいよいよ大詰めです。工事が開始された当時、副校長だった私は前任者から校舎老朽化問題の打開を託されていましたので、引き継ぎ14年目にしてやっとゴールを迎える新校舎完成までの道のりを振り返ると感慨深く、完成した姿を間もなく目にすることができる喜びは、この上ないご褒美のように感じられます。
さて、先月の末に大掃除ではありませんが、校長室の書棚を整理していたところ、昭和56年刊行の全国肢体不自由養護学校長会編『肢体不自由教育の発展(改訂増補版)』(日本肢体不自由児協会)が、ふと目に留まりました。同書は、肢体不自由養護学校(当時)が全県設置された昭和44年を記念して編さん、刊行された初版を改訂増補したものです。その中に、肢体不自由教育の発展に寄与された方々の随想が収められており、そのお一人として桐が丘第2代校長の橋本重治先生の「苦楽の想い出」という記事が収録されていました。そこには、今は取り壊されてしまった前校舎が建設された当時(昭和37・38年)のエピソードが記されていますので、ここでその一部をご紹介させていただきます。
・・・・・何分にも未完成な、卵からかえったばかりの雛のようなか弱い学校であった。元々、整肢療護園の入院児のための教育施設としての学校であったので、それはやむを得なかった。後にだんだんわかってきたが、東京の光明、大阪、愛知、静岡などの養護学校はどれももっと整備されていて、校舎も立派だった。
そこで私の仕事は、整肢療護園に入院している子供の教育施設(入院部)だけではなく、新しく在宅肢体不自由児のための通学部を作り、もっともっと拡充整備しないことには、このままでは肢体不自由教育の教育機関としても、また肢体不自由教育の研究機関としても、その機能を十分には果たしえないと考え、新校舎建設の予算獲得に奔走しはじめた。まず、教育大学内部の同意をとりつけ、次に文部省の賛同を得なければならないし、議会筋にまで陳情運動を繰り返した。この間、共に今は故人になられたが、内部では特に石三次郎教授、外では特に中村梅吉代議士のお力添えは、今も忘れることはできない・・・・・(前掲書685頁)
今から60年以上前のエピソードではありますが、現在の校舎改築の道のりと重なることが多く、先輩方の想いを今も引き継いでいる中での校舎完成であることに気付かされ、新校舎完成の意味をかみしめなければならないと感じました。
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筑波大学附属桐が丘特別支援学校
