桐高生日記vol.63

K君③(高2)の日記から・・・

 今日は「翻訳」について話そうかと思います。しかし、今回の話は普通の翻訳ではありません。歴史を変えた翻訳についてです。
     *
 時は、第2次世界大戦末期1945年に「日本への降伏要求の最終宣言(以下、「ポツダム宣言」という)」が発表され、日本に届いた。そんなときのお話です。
 ポツダム宣言が外務省条約局により翻訳され、外務省定例幹部会で共有されました。同会では「受諾自体はやむを得ないが、交渉の余地あり。本来は黙っているのが賢明、しかし新聞各社にはノー・コメントで掲載するよう指導する。」ということで結論となりました。
 これは、最高戦争指導会議(内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長による会議)と閣議において時の外務大臣であった東郷重徳から「ポツダム宣言は有条件講和であり、これを拒否するときは極めて重大なる結果を惹起する。」と発言しました。そして閣議決定で公式に報道するが、政府は内容について公式な言及はしない旨決定します。
 しかし、翌日の新聞には報道各社の論評が足されていました。同日、会見を開いた鈴木貫太郎首相は「共同声明はカイロ宣言の焼き直しと思う。政府としては重大な価値があるものと認めず『黙殺』し断固戦争完遂に邁進する。」と述べました。
 この「黙殺」は同盟通信社において「ignore(無視)」と訳され、ロイター社とAP通信社では「reject(拒否)」と訳されました。これが広島への原子爆弾(以下「原爆」という)投下を助長したのではないかともいわれています。これが一つ目の歴史を変えた翻訳です。
 しかし、終戦の裏でもう一つ日本の歴史を左右する翻訳がありました。そこでもう少し時間を進めてみましょう。
     *
 9日には長崎に原爆が投下され、日ソ中立条約をソ連が一方的に破棄し、いわゆる対日参戦が行われました。長崎への原爆投下は同日の最高戦争指導会議の最中に伝えられたこともあり、この時点で政府として宣言を受諾するほか道はなくなりました。
 しかし、陸軍大臣であった阿南惟幾が最後まで反対し、結論は天皇陛下臨席の最高戦争指導会議(いわゆる「御前会議」)で決することになりました。10日未明の御前会議でも決着がつかず、天皇陛下からいわゆるご聖断が下されました。が、しかし問題はこの後でした。
 ご聖断に基づき、「天皇統治大権」の変更をしないという了解の下に受諾する旨の回答が決定されました。翌日の大西洋標準時7時アメリカが電報を傍受。これを受けて用意されたのが「バーンズ回答」です。
 バーンズ回答では「日本の政体は日本国民が自由に表明される意思の下に決定される」とし、また「降伏時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のためその必要と認める処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」とされていました。
 この「subject to」の翻訳で閣内は再び揉めました。「subject to」は外務省案では「制限の下に置かれる」、軍部案では「隷属する」とそれぞれ訳されました。この問題は「国体」を護持したい軍部や政府にとっても大きい問題でした。そして翌日、駐スウェーデン公使から「バーンズ回答は日本の申し入れを受け入れたものである」旨報告され、この問題を含む諸問題は解決し、日本は降伏にこじつけたということです。
     *
 とても長くなりましたが今日はこれで終わります。
(2021.2.15)

(先生から)
 いかがでしょう。以前「K君③日記のコーナーを・・」なんて言いましたが、さもありなん、なのではないでしょうか。このところ、毎回気合の入ったテーマを、「今日は◯◯について話そうかと思います・・」と始めてくれるのですが、その中でも特に気になったものをピックアップしてみました。「歴史を変えた翻訳」なんて、かなり面白いテーマで、英語や地歴の先生にも、ぜひ読んでもらえたらと思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です